3団体の現調  11月20日〜23日

 2014年11月20日、部落解放長野県民共闘会議、部落解放同盟長野県連合会共催による「第29回活動家学校」の方たちが狭山現調に来て下さった。衆議院解散、総選挙と、突然の大義なき解散風が吹く中を、予定通りバスで狭山まで来て下さった皆さんに感謝の心で一杯だ。6時45分にバスは長野を出発し、9時45分、狭山市駅西口から現調がスタート。その後、富士見集会所で交流学習会。
 11月15日に長野、安曇野で人権長野県集会が開かれたばかりで、出逢っていた人も多く、また交流も深まった。

   
「裁判官も現地に立てば真実がわかる」と参加者  解放共闘・徳武さんの挨拶 

 今回現調は初めてという人人が多く、現地は大きく変わっていても「自白」のコースを歩くとその大きな矛盾を感じられ、「裁判官が現地に来れば真実がわかるはず、なぜ来ないのか」と怒りをあらわにする人や、「地元や職場でこのことを知らせていきたい」との感想を頂き、改めて現調の大切さを実感させられた。忙しい毎日の中を現調に来て下さることは大変だと思うが、多くの人に現地に立って頂きたいと思う。

 部落解放共闘の徳武淳さんから「大きな山場の狭山闘争、何としても動かそう」と挨拶を頂いた。そして「『実は11月15日、長野県人権集会が終わり、露の新治さんと、東京から来られた『狭山事件の再審を実現しよう』管理者のNさんを駅まで車で送っていた時、Nさんに、東京からわざわざ長野まで8時間以上かけて集会に行こうと思ったのはなぜですか」と伺うと「私は3年前まで狭山事件を知りませんでした。たまたま東京高裁前を通りかかるとマイクを握って必死に訴えている人がいました。後から知ったのですが石川一雄さんでした。署名活動もされていましたが、私は狭山事件をよく知らなかったので署名はしなかったのですがチラシを頂きました。でも必死に訴えていた人のことが気になり、家に帰ってチラシを読むと大変なことが書いてありました。それから狭山事件の事をネットで調べたり、鎌田慧さんが書かれた「狭山事件」の本など5冊ほど買ってむさぼるように読みました。そしてこれは冤罪だと思ったのです。現地に行ってみたいと思っていた時、ネットで狭山現調を呼び掛けているサイトを知り、現調に始めて参加したのは、高裁前で狭山事件と出会って5カ月ほど経っていました。現地を歩くと、ますます冤罪を確信しました。知った自分ができることは何かと考えた時、高裁前でアピールをしていた石川さんのことを想いだし、高裁前に行くようになりました。集会にも参加できるところはできるだけ参加しています。狭山を知ってから、何かをしたい、という衝動に突き動かされてきました。フェイスブックで狭山を発信しています』と話され驚きました。とても感動しました。この様なことがあるんだと思ったのです。」と話されました。私も「そうなんです。彼女はこの2年半ほど、高裁前アピールを1回も欠かすことなく来てくれています。アピールを終えて、仕事に向かわれます。仕事を半日以上休まれて来て下っているのです。もう高裁前アピールを初めて5年くらいになると思います。
 

 
 映画「SAYAMA」に出てくるひまわり
が凛と天に向かって咲いていました

最初は7人〜8人でアピールを続けていました。今は多い時で40人くらい、平均で25人ほどの人が高裁前に来て下さっています。ボランティアという言葉がありますが、この言葉とはちょっと違う、うまく表現できませんが、彼女のように高い志、熱い想いを持って来て下さっているのです。」と話すと「私も行ってみたい」との声もあり、たのしくてうれしい会話が弾みました。


  11月22日 立教大学大学院キリスト教学研究科の皆さんが「狭山事件現場調査」に来て下さいました。毎年来て下さるI先生とあたらしく来て下さる研究科の皆さんとの出会いは心弾みます。このところ風邪気味で少し元気のなかった石川が皆さんに狭山事件の訴えを始めると元気になります。
 今回うれしかったのは、ホームページで「狭山事件を検証する」管理者のOさんが一緒に来て下さったことでした。Oさんは5年程前からネットで現調をよびかけ、以降全国から多くの人が現調に来て下さっています。多分ネットで狭山現調を呼びかけたのは彼が初めてと思いますし、前述のフェイスブックで狭山を発信されているNさんが初めて狭山現調をされたのも彼の現調呼び掛けのサイトからだったのです。
10時から現調をされ、16時過ぎまで、時間が足りなく思うほどでした。
皆さんありがとうございました。


 11月23日和歌山から

 寒さが和らぎ、温かい日差しの中、和歌山県連青年部の人たちが現調に来て下さった。
高校生も含めて30数人。連休中に関わらず、狭山まで来て下さった皆さん、狭山事件発生から51年、知らなくて当たり前なのに、皆さん狭山事件をよく知って下さっていた。県連や、家族の方が狭山を伝えて下さっているのだろう。

 現調の後、富士見集会所で交流学習会を持ったが、石川が「1985年11月23日の今日、父が亡くなった。私は千葉刑務所でそのことを聞かされた。あの日から30年、両親は病で倒れるまで、現調に来て下さった方や、全国各地に行き、息子の無実を訴え、支援のお願いをしてくれた。両親のことは一日も忘れたことはない。裁判も来年1月に三者協議がある。何としても来年には両親に再審開始の知らせを届けたい。」とさらなる支援のお願いをしました。

 胸が痛くなりました。実は早朝、私は一人で両親の墓に手を合わせてきたのです。普段あまり両親の事を話さない石川の胸にある切ない思いや、無念を痛い程感じました。