近 況   2021年9月21日

 2021年9月17日、電話があった。車の運転中だったので、少し広い所で止まった。もう2年近く話してないM則からだった。胸騒ぎがした。あと5分ほどで家に着くのが待てなくてすぐ電話した。泣いているM則の声が聞こえた。M則とは22~3年ほど前に出会った。狭山中央集会の最終地点で姉のMさんとM則がいた。突然二人から「石川さんは私の父と同じ年です。父は、今年還暦です。還暦のお祝いに結婚式をあげていない両親の結婚式と還暦祝いをしたいと思っています。そこに石川さんたちを招待して一緒に結婚式と還暦祝いをしたいのです。是非来てください。」との真剣な言葉。私は狭山に来てまだ間もない頃だった。知らない人からの突然の招待に驚いた。その時は丁重にお断りしたが、それから家族ぐるみの交流が始まった。
石川と同じ年のSさんは、境遇が石川と似ており、文字もほとんど知らず、「もし狭山事件がここ(兵庫県)で起きていたら父が石川一雄になっていただろう」とMさんが言った。
M則は一雄のことを「おやじ」「おやじ」と慕ってくれた。これまで「おやじ」と言ってくれたのはM則だけだ。私たちもいつの間にか息子のように「M則」と呼んでいた。
一緒に旅行したり、Sさんの家に泊まったり、海へ釣りにも連れて行ってくれた。一雄は初めて海で「タイ」を釣った。Sさんは釣れなくて悔しそうで、不機嫌だったことを思い出す。
率直で真っ直ぐな人だった。Sさん手作りの釣り竿も頂いた。

 
  「今度は空からたたかうゾ!」にーしーからひがしに~

頑固で意地っ張りで、ちょっとええカッコしいの二人。
旅館で二人が肩を組みあいながらカラオケで楽しそうに歌っていた。いつも自分の事のように一雄のことを心配していた。一雄の心の痛みを私以上に感じてくれていた。
いつまでも元気で長生きをしてほしいとのみんなの秘かな思いを込め、鶴仙人、亀仙人とあだ名をつけた。鶴亀仙人と呼ばれても、二人とも特段嫌そうなそぶりも見せなかったなぁ。
4年前、Sさんが病気で倒れられてから、何度かお見舞いに行ったけれど、昨年からはお会い出来ていなかった。それでも元気に生きる闘いを続けていると信じていた。一雄も、Sさんが頑張っていることが励みだったように思う。
Sさんこれまでありがとう。でももう頑張らなくていいね。
一雄はもう少し頑張ってからSさんの傍に行くよ。
     2021年9月16日  82歳。Sさん ご逝去  合掌

 9月18日、新潟県の野田さん(曹洞宗)からお手紙と署名26筆を送って頂いた。
お手紙には「~研修会に1時間程話をする機会を頂いたので、狭山事件の事にも触れさせていただきました。併せて『事実調べ、再審開始を求める』署名活動に協力していただきましたのでお送り致します。~お二人との出逢いは忘れずにおります。必ず、一雄さんがお元気なうちに再審無罪を勝ち取りましょうね。~(一部抜粋)」

 2018年9月に現調に来て下った三重県の保育所のHさんから長いお手紙と写真を送って頂いた。現調で学んだことをパワーポイントでみんなで学習していることや、一人でも多くの人に「狭山事件」を伝えたい思いなど書かれていた。「現調の時、早智子さんから頂いた『スダチ』の種を土に植えました。いつまでも忘れない、何らかの形で残したいと思ったのです。最終2本が残りました。保育所のプランターで大きくなっています。毎日見ながら、お二人の事を想っています。『スダチ』の木を大きくしたいと思っています。これからも私のできることを続けていきたいです。(一部抜粋)」等書かれ、『スダチ』の木の写真が同封されていた。

 毎日たくさんのお手紙を頂くので、なかなかお返事を出せない事が心苦しいが、心折れずに闘い続ける気力を頂く。

 久しぶりに、現地事務所から10分程の上奥富公園に行った。

曼殊沙華の花はやはり満開だった。