近況  2021年12月17日

最近またパソコンの調子が悪い "(-""-)"

11月から12月にかけて、『解放新聞』埼玉版、中央版、『狭山パンフレット』の取材が続いた。「1年を振り返って」「これまでの闘いで印象に残った事」等、様々な質問があり、これまでの事を振り返る事が多くあった。

1999年7月に第2次再審が棄却された。
絶望のどん底の中で、私に何ができるか考えていた。「狭山をもっと多くの人に伝えたい。」事件発生から長い年月が経ち、狭山を知らない人たちが沢山いる。狭山を知ってもらうにはインターネットで訴える事だ、と思ったが、当時の私はワープロにも触ったことがなく、ましてパソコンは未知のものだった。機械音痴で文章を書くのも苦手な私が、ホームページを立ち上げ、更新していくことができるかと悩んだ。しかし、悩んでも何も進まない。2000年に入って、思い切ってパソコン教室の門を叩いた。最初、多い時は一週間に3回程通った。90分が一単位で、一日に2回行くこともあった。パソコンの電源の入れ方から、キーボードの打ち方等、必死に習った。家に帰り、習ったことを復習しようと思っても、どこをどのようにさわっていいかもわからず、復習も出来なかった。1か月ほど経って、やっと復習・予習ができるようになった。教室に通い始めて3か月位経った2000年5月20日、念願の「冤罪 狭山事件」のホームページを立ち上げることができた。ホームページに写真を入れる事、スキャナーを使って石川の短歌を入れる事等、ホームページを更新しながら、一週間に2回程教室に通い続けた。半年位過ぎたころ、何とか一人で操作できるようになった。パソコンが動かなくなって、夜の遅い時間に中央本部のYさんや鳥取のYさんに「どうしよう。パソコンが固まっている」と何度電話したかしれない。"(-""-)"

 私は整理が苦手だが、これまで書いてきた「冤罪 狭山事件」はすべてファイルに残してある。2000年5月から2021年12月までの約22年間のファイルは74冊になっていた。何をしても長続きしない私が「冤罪 狭山事件」のホームページだけは続ける事ができた。「狭山を知ってもらいたい」ただそれだけの私の思いに応え、拙い文章を読んでくださる方がいた。感想を送ってくれたり、励ましてくれたりした。そのことに奮い立たされ、続けることができたように思う。

インタビューの中に、「これまで一番印象に残った事は?」という質問があった。振り返るために、ファイルに残していたホームページを1冊目から見ていくと、各地での多くの忘れられない素敵な出会いと闘いが、まるで昨日の事のように思い出された。狭山現調に大雨の中来て下さった団体や、夜行バスで来て下さった人たち。 狭山現調に来るために、廃品回収等を地域・子どもたちが続けながら、自力自闘の活動をして来て下さった子ども会の皆さん。皆忘れられない出逢いばかりだった。まだ12冊目までしか見直すことができていない。
それぞれの集会等には、一雄が短歌を詠んでいた。短歌もいつか整理したい。

12月9日、埼玉の邦子さんによるインタビューの中でも、いろんな事を思い出した。邦子さんは、私が狭山に来てからの最初の友人だ。
12月15日、中央本部のYさんによる『狭山パンフレット』のインタビューと解放同盟中央本部の新年ビデオメッセージの撮影。
新型コロナ禍の影響で集会や現地調査が難しくなってから、中央本部のホームページにビデオメッセージで私たちの近況等報告するようになり、早2年。

12月11日、三重県の明ちゃんから今年も素敵なシクラメンの花が届いた。
「会いたいです」のメッセージを添えて。
彼女と初めて会ったのは10数年前の狭山中央集会だった。
子ども会の皆さんと一緒に日比谷野外音楽堂に来てくれた。
毎年毎年、子どもたちが沢山の手紙を持って会いに来てくれた。
それ以来彼女は全国女性集会等で必ず狭山分科会に来てくれた。
彼女の優しさや、まっすぐな心が大好きだ。



石川が10年位前に詠んだ歌だ

12月も半ば

2022年は鑑定人尋問や、証人尋問が始まり再審が開始される年にしたい

大きな世論を巻き起こし、さび付いた司法の扉をこじ開けたい

2022年は全国水平社創立100年

2023年は狭山事件発生から60年

闘いの中で道は拓ける