部落解放同盟 組坂繁之中央執行委員長 挨拶

 1922年3月3日、被差別部落出身の人たちが、部落差別からの解放をめざし、全国から3000人が集まり、京都市・岡崎公会堂(当時)で創立大会が開かれた。差別・貧困の中を苦しみ、喘ぎながら生き、また部落民であることを隠さざるを得なかった事の屈辱の歴史に、部落民自身が立ち上がり、差別からの解放を勝ちとるという血の叫びの大会。全国から何日もかけて、自転車や徒歩で集まった人たちの、くしゃくしゃに歓喜の涙を流したであろう姿が想像される。そこで採択された「宣言」は、「日本最初の人権宣言」でもあった。 

創立大会から25年後に生まれた私は、部落民であることを隠し部落から逃げてきた。
結婚差別、就職差別、職場等で数々の被差別体験をしながら、それでも立ち上がることはできなかった。職場の労働組合運動の中で、部落解放運動、狭山闘争に出会った。獄中から発する石川一雄のメッセージに心震えた。「差別から逃げない。差別をなくし、石川の冤罪を晴らす闘いに生涯かけて闘う」と決意するまでに時間はかからなかった。運動の中で多くの同志に出会った。

 
 会場:ロームシアター京都

 45年位前、初めて東京で開かれた狭山中央集会に参加した。代々木公園(原宿)での2万人位の集会だったと思う。会場に近付くにつれ「解放歌」「狭山歌」が聞こえた。会場は荊冠旗がたなびき、黄色いゼッケンで埋め尽くされていた。「ここが自分の場所だ」との思いがつのった。涙があふれ止まらなかった。初めて参加した全国女性集会(当時は全国婦人集会)では、会場入口に、開催県連の女性たちが拍手で出迎えてくれた。荊冠旗を高々と掲げた各県連の女性たちが入場し、壇上には女性たちがいた。この時も涙が止まらなかった。歓喜の涙だった。
差別から逃げているときは、逃げても逃げても差別が追いかけてきた(ように思った)。逃げないと決めてから差別は追いかけてこなくなった(ように思った)。これまで差別発言をしていた人も、部落問題の学習や行動に参加していく中で変わっていった。人は変われる。人は素敵だ。人が好き、と思えるようになった私自身が一番変わったように思う。「部落を隠せ」と言った母が、20年前の2003年5月23日、地元・徳島新聞のインタビューで「一雄さんは優しい人です。私の願いは一日も早く一雄さんの冤罪が晴れることです」と語った。体調を崩していた母は、赤いパジャマ姿で写っていた。母に付き添っていた弟が「マイクなど向けられたことのない母が凛としてインタビューに答えていた」と報告してくれた。それから10日後、母は旅立った。新聞の写真と記事が母の遺言となった。母の温かい思いと強さに今も胸が熱くなる。

2年余りも続く新型コロナ感染の中で、2022年3月3日、参加者を1000人に縮小した記念大会だったが、100年前の創立大会と同じように参加者がそれぞれの思いを持って京都にきたのだろう。

オープニングは「吉祥院六斎念仏踊り」
記念式典は「水平社宣言」朗読からはじまった。
主催者を代表して組坂繁之委員長は、ロシアによるウクライナ侵攻に触れながら「戦争は最大の差別・人権 侵害、平和で差別のない社会の実現を」と挨拶された。
一雄は、狭山闘争支援を訴え「私は現在83歳、元気な間に無罪を勝ち取れるようさらなる支援を」と訴えた。

100周年功労者表彰があった。徳島からは、45年以上共に闘ってきたSさんたちが表彰されたことがうれしかった。
初めて狭山23デーで徳島駅前の情宣行動で黄色いゼッケンをつけた時、初めての狭山中央集会、初めての全国青年集会も、いつも仲間がそばにいた。

狭山闘争は私を強くしてくれた。多くの同志に出合わせてくれた。人間の醜さも素晴らしさも感じてきた。闘いの中で石川一雄に出会った。そして今私の目指す闘いを続けている。苦しくないと言えばウソになるが、私は幸せな人生を送っている。


全国水平社創立100年のこの記念すべき集会に参加できたことをうれしく思う。

水平社100年のこの年にこそ、狭山闘争の確かな一歩を刻みたい。

写真は、「えん罪 狭山事件」(大阪)と ストーンリバー  より転載させていただきました。