狭山差別裁判糾弾!石川一雄再審無罪実現!さらば、ビンちゃん!「Xの会」

2024年6月22日

 大阪・豊中の友人、ビンさんが1月緊急入院した。3月17日亡くなられた。
彼からの最後のメールは12月31日「元気にしていますか。宇宙人が一番元気ですわ」だった。宇宙人とは私が彼の連れ合いのひろ子さんにつけたあだ名だ。

私たちが、大阪に行くことがあると、よく大阪駅で待ち合わせをした。ひょうひょうと現れ、少し照れくさそうな顔をして「やぁ」と手を挙げた。コロナ禍になり、大阪に行くこともほとんどなくなり、彼ともなかなか会えなくなったが、毎日のようなメールのやりとりで、何時も身近な存在だった。
彼はメール魔?で、(ゴメン<(_ _)>)12月15日までは一日置き位にメールが来ていた。多い時は一日に3回くらい届くときもあった。

彼との思い出はたくさんあるが、一番は「かき氷」の思い出だ。
たしか15年くらい前にお会いした時、一雄が「子どものころかき氷が食べたかった。家が貧乏であったので、かき氷が買えなかった。イチゴのかき氷食べたかったなぁ」と言ったことがある。彼は「行こう」と言って近くのお店に入った。イチゴのかき氷を注文。一雄はおいしそうに大きな大きなかき氷をぺろりと平らげた。横でビンさんがとてもうれしそうに親が子を見る目で一雄がかき氷を食べているのを見ていた。優しい顔をしていたなぁ。うれしそうな顔をしていたなぁ。一雄は幸せ者だなぁと思ったものだった。

また、彼からは帽子をたくさん頂いた。最初一雄は帽子が全然似合わなかった。それがだんだんに似合ってきた。今はほんの少し外に出る時も帽子を離さない。ビンさんも一雄もおしゃれだった。?今もビンさんから頂いた帽子を大切にしている。

3つ目はやはり、大阪駅で話しているとき一雄が「獄中でラジオから流れる『カスケージの悲しき雨音』が好きだった。一生懸命覚えたなぁ」と話したことがあった。1962年にリリースし、1963年には全米で3位にランクインされたそうなので、ラジオからよく流れていたのだろう。話してから間もなく、彼からCDが送られてきた。歌詞カードにはカタカナでフリガナを振ってくれていた。さりげなく優しい人だった。
 あれから3か月、6月22日「さらば、ビンちゃんの会」を持ってくれた。お別れの言葉も言ってない。何があっても駆けつけたかった。連れ合いのひろ子さんにもお会いしたかった。
時間があったので、彼から届いていたメールを新幹線の中で読み返していた。毎日のように届いていたが、2023年12月分位のメールしか残していなかった。12月17日のメールは、「また読みにくい字で家令裁判長にストーンリバーとハガキ送りますわ」とあった。そうだ、彼はこれまで千通を超えるハガキを高裁に送ってくれていた。かろうじて残していた2019年8月のメールには「今日でハガキ360通目です。」とあった。彼は一年を超えて毎日裁判長にハガキを出し続けていた。何度も何度も。
彼の字は読みにくい。(<(_ _)><ごめん)
一雄も「ビンさんの字は裁判長も読めないよ」と電話で話したこともある、

思い出すときりがない。それほど多くの思い出と闘いを残してくれた。
6月22日、ビンさんのおかげで多くの人と出会えた。私の知らないビンさんの日々や闘いも知ることができた。
参加者全員がビンさんとの思いを語った。「愛されていたんだなぁビンさん。愛していたんだなぁ、ビンさん」とつくづく感じた。
圧巻は連れ合いのひろ子さん。最後の挨拶で「私が言いたいことはただ一つ。一雄さんをこの手にとりもどすまで頑張る」と言って、突然に「差別裁判 打ちくだこう」を大きな声で歌い始めた。
さすが宇宙人。
私は涙が出て止まらなかった。
皆さん、Sさんありがとう。ビンさんありがとう。でも寂しいよ。

ストーン・リバーに掲載されています。