近 況(温かい心)2024年8月8日

 徳島に来て何日かが過ぎた。
一雄が「徳島に行きたい」と言うので来たのだが、その反面一雄は、「支援者皆さん方が、酷暑の中、狭山を闘っているのに、徳島に来るのは申し訳ない」との思いがある。
狭山にいるときは、ほとんど外にでないし、外食もしないのに、徳島に来ると、姉夫婦や弟たちに誘われて、よく外に出るようになった。

 8月6日、8時半ごろ、兵庫県のMANAMIさんが訪ねてきた。「これからほかに行くところがあるので、すぐ帰るから」と言って、荷物を降ろすとすぐに帰った。
せっかく骨休みに大好きな徳島に来ているのに、ゆっくりさせてあげたいと思ったのだろう。
車には大きな段ボール箱が3箱。「今回はお姉さんたちもいるので、皆さんで食べてください」と。
数えきれないほどの果物や、お惣菜、菓子、野菜、トウモロコシや、納豆、モズクも。一雄がいつも食べているものや、好きなものが中心だ。私はマクワウリが好きなのだが、それもいっぱい。そして彼女が一生懸命編んだ帽子やマフラー等々。玄関先が品物で一杯。「最近一雄さんは立ち上がるのが少し大変と聞いたのでこれを使ってみて」と器具も。
一雄と同い年の彼女のお父さんは3年前に亡くなられた。それから「お父さんは一雄さん一人になった」と言って、ずっと親孝行してくれている。
彼女のお父さんも、一雄と同じく字を知らなかった。「もしかしたら狭山事件が兵庫県でおこっていたら父が石川一雄になっていたかもしれない」とずっと言っていた。
彼女に初めて声をかけられたのは26年くらい前、私が狭山に来て間もないころの狭山中央集会だった。解散地点で彼女に声をかけられた。「私の両親も結婚式をあげていません。父は一雄さんと同い年で今年還暦です。両親に還暦のお祝いに結婚式をあげることを計画しています。そこに石川さんたちを招待し、合同結婚式をあげたいので来てくれませんか?」と。驚いた。見も知らない人から(でも彼女は小学生位の時お母さんと一緒に、拘置所の石川一雄に面会に行ったそうで、その時一雄から『面会に来なくていいから、私のようにならないように、今は一生懸命勉強してください』と言われたそうだが)
 今思えばとても素敵なお誘いだったが、当時の私は、ただ驚いて、丁重にお断りしたことを覚えている。
その後家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていた。お父さんはほんとに一雄によく似ていた。頑固で、シャイで、気を使う人だった。
彼女は、入院生活が長かったお父さんの世話をしながら、何が必要で、どうしたら気持ちよく過ごせるのか、を感じ、それを一雄にしてくれているのだ。彼女が「生きているだけで丸儲け。生きていてくれるだけでいい」と一雄にハグしながら言っていたが、彼女のお父さんに対する気持ちだったのだろう。
一雄は案外人に気を使うが、彼女にはあまり気を使わない。お互い親子のような関係ができているのだろう。ありがたいことだ 。
姉が「一雄さんは幸せだね」と言ったが、本当にそうだ。


 昼食は、弟や姉夫婦と一緒に彼女から頂いたごちそうでパーティをした。私の姉弟は、アルコールがダメなので、お茶やコーヒーで乾杯。
ワイワイにぎやかな時間を過ごした。一雄もとても楽しそうだった。
ありがとう MANAMI。


 8月6日午後、一雄が「徳島に行ったら『イチゴのかき氷』を食べたい」と言っていたので、イチゴのかき氷を食べた。


8月6日、プリンターを買った。パソコンに取り込むことができなくて困っていたら、友人が「パソコンに詳しい人がいるから」と、部落解放同盟徳島県連に行った。県連には8月㏤、挨拶に行っていたので、2日間連続で県連に。プリンターを無事パソコンに取り込む。ホッ

 狭山では、毎日慌ただしくしているが、徳島では毎日がゆっくりと過ぎる。


後日談(8月12日)
このページに間違いがあり、(惣菜を総裁と書いていた)訂正した後でMANAMIさんに電話した。
彼女が「実はほかにも間違いがある。一雄さんに面会に行ったのは、私が高校3年の時で、千葉刑務所だった。兵庫県連の女性部の人と行った。一雄さんに面会した時「私がこの16年間にいろいろ悩んだりしたとき、会ったこともない石川さんの闘いを思い、軌道修正もできた。そのお礼を石川さんに言いたかった」と言うと一雄が涙したそうだ。
私が、ほかの人の面会の時と勘違いして書いていた。ホームページを書きながらこれまでいっぱい間違って書いたことがあるのだろうな~と思う。
ありがとう。MANAMI。この文章も間違っているかもしれないけれど・・・・・ごめん <(_ _)>