「石川一雄 短歌に託して」


フェイスブック「狭山事件の再審を実現しよう」に弁護士の海渡さんが「石川一雄 短歌に託して」を紹介してくださっているとありました。

2008年国連(スイス)に行き人権規約委員会で一雄が直接無実を訴えました。最後に一雄が「アイアム イノセント(私は無実です)」と訴えました。初めてパスポートを取り(半年間限定でスイスから帰ると即パスポートは返還という厳しいものだった)スイスに飛びました。スイスで海渡弁護士に出会いました。初めての外国でなれない私たちでしたが、海渡弁護士にとてもお世話になりました。以下は海渡弁護士が短歌集をご紹介してくだったものです。

「無実を訴え、再審請求の途上の道半ばで、今年の3月11日に、無念のうちに病に倒れた石川一雄さんの短歌集と、短歌に寄せて語られた言葉の数々が、『石川一雄 短歌に託して』としてまとめられ、解放出版社から出版されました。
 前半20首が、獄中で詠まれた短歌、後半12首が仮釈放後に詠まれた短歌、残り8首は未発表短歌で、合計40首の短歌によって石川一雄さんにかけられた冤罪、その冤罪を産み出した背景には部落差別によって石川さんからは文字が奪われていたことがあること、そして、冤罪を晴らすための闘いが石川さんが文字を獲得していく闘いと軌を一にして進められたことが手に取るようにわかります。
 短い冊子ですが、この冊子を読み通すことで、石川さんが無実であることが確信できると思います。たくさんの方々に手に取っていただきたく、ここにご紹介します。
4番 こんな歌があります。
 泣けるだけないても癒える事でなし 怒りの渦は日夜逆巻く
 石川さんは、一審の裁判の過程で、自白を覆すことなく、警察のいうことを聞いていれば命は助かり、10年くらいで外に出られるものと信じていました。この歌は、石川さんが警察に騙されていたということを、ようやく気付いたときの怒りの逆巻く気持ちをうたった短歌です。石川さんは、このように語っています。
 「私が弁護士を嘘つきだと思ってたのは、一九六三年六月一七日に保釈され、裁判で本当のことを話せると弁護士から聞いていたのに、すぐに再逮捕され川越分室で厳しい取り調ベが始まったからだ。取調官は、「弁護士にだまされたんだ」と言ったので、何回も来た弁護士に「帰ってくれ」と断った。東京拘置所で、三鷹事件の竹内さんは、何回も何回も私のところに来て、「弁護士に真実を話せ」と言った。あの人だけは信じて本当のことを打ち明けた(竹内さんは無実を訴えたが、何年か後に獄死した)。当時の私は、弁護士が私を助けてくれる人だとは知らなかった。何にもわからなかった。
 だんだんいろんなことがわかってきて、私は警察官にだまされたことを確信した。私をだました三人の警察官に復讐心がわいてきた。首を覚悟して、死刑囚である私に、教えてくれる若い看守さんに、「臥薪嘗胆」という漢字を教わった。大きく書いて、部屋の中に張った。だまされたことが悔しくて悔しくて、いつも「臥薪嘗胆」をみて自分の心を奮い立たせた。でも、おやじやおふくろにはすまなくてねえ。」
 文字を学ぶように勧め、石川さんが警察にだまされているのではないか、弁護士に正確な事実を話さなければだめだと勧めたのは、三鷹事件の竹内景助氏でした。みずからも無実の罪で死刑に問われていた国鉄労働者であった竹内景助さんのこの励ましがなければ、石川さんは自らの無実を訴えて立ちあがることすらできなかったでしょう。そして、1960年代の東京拘置所の死刑囚監房の中では、このような獄中者同士の助け合いが可能だったのです。
5番 死刑囚監房の様子を詠んだ、次のような歌もこの歌集に採録されています。
 独房の深夜に微(かす)か靴の音 不気味にも聴く死囚の孤独
 一審で死刑判決を受け、石川さんは東京拘置所の死刑囚房に収容されていました。そこには、三鷹事件の竹内さんもいたのですね。
 石川さんは次のように述べています。「全体で三畳くらいの広さだね。二四時間、うす暗い電球がつきつぱなしでね、窓は曇りガラスで一カ所。鉄格子がはまっていて押して開ける。トイレにふたをして椅子の代わり。流しにふたをして机の代わり。ここで必死になって文字を学んだ。私には大切な場所だね。
 就寝時間はあったけれど、死刑囚は寝なくてもよかったから、一晩中起きていることも多かったかな。深夜の見回りは一五分おきくらいに、夜勤の看守さんは草履を履いていた。深夜に革靴の音が響くと、胸が苦しくなってくる。深夜に革靴を履いていいのは、区長、所長、課長だけだからね。何かあったのかとか心配になる。朝と重なるから不気味で眠れなくなる。朝の死刑執行前は、全員が革靴を履いていて、歩き回る音がコツコツと響くんだよね。その音を、誰もがじっと聞き耳を立てて、自分の独房の前に止まるか、緊張して聞いている。深夜の靴の音は、それと重なるからやりきれない気持ちになる。
 私が一0年いるうちに、四六人死刑執行されたからね。いつもひとごとには思えない。苦しかったなあ。」
7番 話す事聞くこと総て気に触る 獄舎生活黙して耐ゆる
 獄中生活の耐えがたさを詠んだこのような歌があります。そして、以下の語りの中には、この厳しい獄中生活で、一人の青年看守とその妻の支援が石川さんの心の支えとなっていたことがわかります。
 「独房生活が何年も過ぎると、他の死刑囚の交わす言葉がいっぱい耳に入ってくる。死刑囚として入っている人ばかりだから明日がわからない。看守さんの一言や、することに腹を立てる。直接は言えないから、悪口を言うんだね。例えば、上を向いて寝ないと、独房の外から篠みたいな棒で突かれるんだ。私はつい最近まで、上を向いて直立不動というのかな。そんな恰好で寝ていたから、連れ合いのさっちゃんが驚いていた。」
 「私を担当した看守さんは、私より三歳下の大学を卒業したばかりの二二歳だった。大学の時に、友人から狭山事件の話は聞いていたようで知っていた。私が無実かどうかはわからなかったと思うよ。私の話を聞いて、一週間か一〇曰くらいたって『勉強して文字を覚えて文字を力に無実を訴えなさい』と言ってくれた。嬉しかったねえ。看守さんの言葉は、私の希望になった。そんなことをしたら自分の首が危ないのに、一生懸命に文字を教えてくれた。
 後でわかったことだけれど、看守さんのお連れ合いさんが、筆記用具や紙などを、私の家族のふりをして長いこと差し入れてくれた。私は黙って、希望を胸に耐えたんだ。絶対に私の無実は伝わる。文字を覚えようって。」
 黒川みどりさんの書かれた『被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件』(2023/5/17 岩波書店刊行) にも、書かれていますが、石川さんに文字を教えてくれたのは一人の看守でした。そして、父母の名で、便箋や封筒、切手、ボールペンを差し入れ続けたのは、その看守の「奥さん」だったのだそうです。彼は、大学卒の看守であり、狭山事件についての認識をある程度持っていたようです。そして「やってないなら、字を覚えて助かる道を選べ」と字を覚える特訓をしてくれたのです。一日三万字の書き取りなど、すさまじい訓練のために、石川さんは五年間は両親の面会も受けなかったそうです。石川さんは、言葉を獲得し、自らを冤罪に追い込んでいったものが、差別によってつくられた無知だったことを、自分の言葉で語り、短歌に詠むことができるようになっていったのです。」