14日から16日までは朝から晩まで国連の建物の中を移動しながら、狭山事件で45年間無実を訴え続けていること、10年前にも委員会から日本政府に、証拠開示についての勧告が出されたにもかかわらず、いまだ証拠が開示されていないことなど、多くの自由権規約委員に、「日本政府に強く証拠開示勧告を迫ってほしい」と訴えました。Oさんが通訳をして下さいましたが、このときほど言葉が通じないことをもどかしく思ったことはありませんでした。石川も同じ思いをしていたようでした。

 14日は委員会・委員へNGOからの発言・訴えがありました。会場を移して18時から20時まで、日弁連の主催した「布志布事件」の映画上映会と、その後のレセプションに参加しました。司会をされたT弁護士が印象的でした。2歳くらいのお子さんと一緒でした。昼は子どもをベビーシッターさんに預けていたそうです。遊ぶことに飽きるとマイクを握っているTさんのところに来て「ママ」と手をひっぱりました。Tさんはそのままヒョイと子どもを抱きかかえ、司会を続けられました。この日もたくさんの参加がありましたが、2人が一番輝いていたように思いました。
映画は下に英語で字幕が入ったものでした。「狭山事件でもこのような映画があれば、世界に発信できる」と思いました。

 15日午前、えん罪被害者の4人から直接委員に訴えました。石川の発言は最後でした。マイクを握った石川は、最後にゆっくり力強く「アイ・アム・イノセント(私は無実です)」と結びました。昨夜、遅くまで訴える内容について、Oさんから英語のレクチュアを受けた成果はその自信となって現れていました。念願のパスポートを取り、15時間以上の旅でスイス・国連まで来て、自分のいっぱいの思いを、おちついて訴えたのです。彼の胸に去来するものは何だったのだろうと思いました。私はただただ涙があふれとまりませんでした。横に座っていた片岡さんの目にも光るものがありました。孫のような年齢のOさんと、片岡さんが、ホテルの一室で、夜遅くまで気長に石川に付き合って下さったことなど、多くの人に支えられてここまでくることができたのです。



 15日午後から16日は日本政府報告審査会でした。このときは日本語通訳がありました。
 冒頭、ジュネーブ国連・日本大使から挨拶と、日本代表団の紹介がありました。「10年前は女性の参加は1人だったが、今回はこれだけ参加しています。これが成果です」と自信たっぷりに話されました。なるほど今回は女性が7人ほど参加されていました。休憩時間に日本代表団の男性の1人に「大使が挨拶で、今回女性の参加が多い、と話されましたが、全部で何人来られているのですか}と伺いました。「私は把握していません。会議が始まったら数えてみて下さい」とまるで木で鼻をくくったようなそっけない対応でした。国連に人権問題で日本を代表して来ている「職員」(私たちの税金を使ってスイスに来ている)がこのような対応を取ること・・・今の日本の貧しい人権状況がうかがえたときでした。

 委員から一番質問され、また、日本の対応を批判されたことは、「死刑制度」と「代用監獄」の問題でした。また「証拠開示」がされていないことの懸念も出されました。この一瞬、体が震えました。ここに来て、この間、幾度涙をこらえたかわかりませんでした。しかし、日本政府の答え、対応はひどいものでした。「代用監獄で朝の2時まで起こして取り調べ、自白を迫る」「長期、長時間、尋問を行い弁護士に対するアクセスも不十分にしか保障されていない中で圧迫されている」ことの懸念や、「裁判手続きにおける証拠をいかに扱うか、証拠は奇跡を起こす」と証拠不開示の懸念を示されても、「『推定無罪』は司法の中核であることを理解されていないのではないか」と強い批判をされても、真摯に答えようとせず(そのように思えました)時間も大きくオーバーしていることもあり、「書面で答える」との回答が多かったことも残念でありました。

同時通訳器で委員の
日本政府報告審査を傍聴

 16日の予定は10時から13時までしたが、休憩を挟み17時を超えるまで時間延長をされましたが、日本の人権貧国の実態がより明らかにされたと思います。

 私たちが、ここに来た目的は一応果たせたのではないかと思います。
後は、日本政府の回答を見届けること。そしてこの勧告の実行を迫ること。日本政府が知らせたがらない(と思える)国連・自由権規約委員会の勧告を多くの人に伝えること。それが私たちの今後の闘いだと思います。

 10月30日、日本政府に勧告が出されました。「日本政府に証拠開示の勧告を」の思いは果たされました。これをまた一つの闘いの力、エネルギーにして、前に一歩進みたいと思います。