お母さん ありがとう

 1月3日、故郷徳島に帰りました。
 1月7日、兵庫県の友人Mさんのご両親が入院されているので徳島から車でお見舞いに行く途中、電話がありました。東京の堀切教会からでした。運転中だったので、ドライブインで止まり、電話をすると「Hさんが亡くなった」とのこと。ただ驚きで声が出ませんでした。6日の13時頃、買い物先で倒れ、救急車で病院に行ったそうですが、そのまま帰らぬ人になったそうです。
お連れ合いのMさんが入院されていたので、毎日病院に通われていました。お忙しい中を、様々にボランティア活動を続けられていました。「オモニ学校」 ホームレス支援、そして狭山支援などです。

 
 2017年1月29日 お母さんと

 夕方堀切教会から10日が前夜式、11日が告別式と知らせて下さいました。9日、急いで狭山に帰りました。信じられない中での10日の前夜式、11日の告別式でした。

 Hさんと出会わせて頂いたのは14~5年前の事です。日本基督教団堀切教会から狭山の公正な裁判を求める署名の要請があり、Hさんは狭山の事を知りたいと、「狭山事件を考える東葛住民の会」の学習会に来て下さったのです。それからは毎年開かれる東葛住民の会の学習会や、東京・日比谷野外音楽堂で開かれる狭山市民集会、葛飾で開かれる狭山集会、堀切教会での狭山学習会等でお会いさせて頂きました。手作りのパッチワークのリュックサックや、バック、手袋、マフラー、そして温かい心をいっぱい頂きました。狭山事件の犯人とされ、半世紀以上も無実を訴え続けている夫一雄に、社会正義を求めた多くの人たちからご支援を頂いてきました。出会った人たちから「石川さんがんばってね」との温かいはげましの言葉を頂いてきました。でもHさんは「一雄さん健康に気をつけてね」「寒いから風邪をひかないようにね」 糖尿病で厳しい食事療法を課している石川に「もう少し食べないとだめよ」と、いつも一雄の体の心配をしてくださいました。「一日も早く冤罪が晴れるようにと祈りを続けています」とのお手紙と共に、沢山の狭山署名を何度も何度も送り続けて下さいました。
 
 今年、1月6日には「健康に十分気をつけてね」と書かれたHさんからの年賀状が届いていました。常に自分のことより他者のために、他者によりそい、痛みを共有して下さっていました。私たちにとっていつか母のような存在となっていました。勝手に「お母さん」と呼ばせて頂いていました。特に獄中で母を亡くした一雄にとってHさんは「お母さん」でした。

 1年前の2017年1月「狭山事件の石川さんと出会って部落問題を身近に学ぶきっかけを頂きました。心から感謝しています。厳しい人生を送られたと思いますが、けれど、多くの人に光を与えています」と話して下さったHさん。このようにおっしゃって下さったHさんの気持ちがうれしくて涙が止まりませんでした。石川一雄の苦難の人生も、もしかしたら誰かの光になったかもしれないと思うと彼の人生も決して無駄ではなかったかもしれないと思ったのです。被差別部落に生まれ、マイナス思考で生きていた私自身も、石川の闘いに出会い、光を見、生き直すことができたのです。
 最近はお連れ合いさんの介護でお忙しかったはずなのに、いつも私たちに温かい思いを届け続けて下さいました。  2017年12月14日、Hさんから大きな段ボール箱が届きました。お手紙と沢山の菓子、署名等が入っていました。お手紙の最後に「体に十分注意して早く風邪を治してね」と書かれていました。彼女から頂いた無償の愛。振り返ると私たちはお母さんに甘えてばかり、支援し続けて頂く事ばかりでした。

 
 2017年6月に母から頂いたリュック


お母さんありがとう
お母さんの元気な間に朗報を届けることができなくてごめんなさい。
一日も早くお母さんに安心して頂くようにしたいと思います。どうか見守っていて下さい。
 
お母さんありがとう。

とるものも取り敢えず狭山に帰ったので、12日夕方徳島に帰ってきました。 徳島の友人たちも高齢になりました。
16日徳島の友人たちと会う約束をしました。それから狭山に帰ります。

 長すぎる狭山闘争、大切な多くの人を失いました。今も病床におられる方も。沢山の人の思い、遺志と共に勝利まで闘いぬきます。