近 況
部落解放同盟第75回全国大会 2018年3月3日~4日
豊中・ストーンリバーより転載 |
第75回全国大会が東京・日本消防会館でひらかれた。最初に水平社宣言の朗読で始まる。
1922年3月3日(大正3年)、部落の解放、人間の尊厳の確立を目指して、京都・岡崎公会堂で開かれた全国水平社創立大会の中で、高らかに宣言文が読まれた。そこに結集した被差別部落の人たちの歓喜の涙や、胸の震えは如何ばかりだったろうかと思う。被差別部落の人たちが差別を許さない、人間は尊敬されるべきものと謳い、立ち上がった、日本で初めての人権宣言といわれるものだ。
宣言の一文に「~ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。我々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。~水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ 人間に光あれ(一部抜粋)」
初めて水平社宣言に出会ったのは40年くらい前だったろうか。その時、胸がいっぱいになった。涙があふれた。
写真は 大阪・Mさんより送って頂きました |
職場の労働組合の中に部落問題研究会ができた。それまで被差別部落出身を隠して生きてきた。差別事象や差別発言があっても、何もできなかった。唇を噛みしめていた私が、部落解放運動や狭山事件の石川一雄の闘いを知った。石川一雄が全国の支援者に対して獄中から発する「差別から逃げていても差別は無くならない。差別を無くす運動に立ち上がれ。私は無実、私の冤罪を晴らす闘いに共に闘ってほしい」とのメッセージは、苦しい毎日だった私を奮い立たせ、生き方を根本的に変えるものだった。
命を賭して差別に抗い、闘い続けて来た先達の、子や孫に差別を残さないとの痛いほどの思い、水平社宣言は私に背筋をのばさせた。
本部を代表して、組坂委員長、来賓の挨拶が続いた。狭山に限って報告をすると、立憲民主党・枝野代表が「狭山事件の発生から55年、未だ冤罪が晴れていない。取り調べの可視化や証拠開示など、法的問題解決に向けて取り組みたい」 連合・神津会長から「無実を明らかにする新証拠も多く出されている。だれが見ても石川さんは無実だ。これからもさまざまに粘り強く闘う。」等熱い連帯のメッセージを。中央共闘会議議長からも狭山再審実現にむけて取り組むアピールがされた。
狭山弁護団、中山主任弁護人、中北狭山弁護団事務局長から「今年こそ事実調べを勝ちとり、再審開始決定の道を開く勝負の年、皆さんのご支援を」と訴えられた。
石川も「勝利に向けての最後の勝負の時」との強い思いを込めたアピールをした。
2018年度現業セミナー 2018年3月3日
部落解放同盟・小野寺書記長の講演 |
同日、自治労会館で、13時から「2018年度現業セミナー」があり、その中で、「人権学習会」として、狭山の訴えをさせて頂くことになっていた。上記全国大会でのアピール後、すぐに自治労会館に向かった。
私は徳島にいた頃、自治労の組合員(30年位)として、組合運動の中で、狭山闘争に出会った。
1975年に部落解放中央共闘会議が結成されたが、当時、自治労が中心になって、狭山闘争をはじめ、部落問題への取り組みを全国的に広げていったそうだ。私にとって、大きな転機となった闘いの出会いだった。
ワクワクしながら自治労会館に行ったが、大勢の参加者に驚いた。全国から組合員が来て下さっていたのだ。
石川は、部落差別の結果貧しくて殆ど学校に行く事が出来ず、教育を受けられなかったことや、警察、検察、裁判所、市民の差別意識が事件の背景にあったこと、しかし、自治労を始め、社会正義を求めた多くの組織、個人の長い支援と闘いが、狭山再審闘争を大きく動かせてきたこと、などを報告し、さらなる支援を訴えた。
2018年3月2日、保護司さんとの面談