2018年5月1日の朝、「55年目の5月1日だね」と石川に話した。石川は淡々としていた。石川にとって、55年前の5月1日というのは、普通の一日なのだ。5月4日に「死体」が発見され初めて事件を知るのだ。
狭山事件は、1963年5月1日夕方7時40分ごろ、Yさん宅に脅迫状が届けられたことから始まった。6時過ぎになっても家に帰らなかったYさんを兄が探しに出かけ、7時半ごろ帰宅、玄関を入ってすぐの土間で他の家族と食事をしていた。ところが今しがた、自分が入ったばかりの玄関の入り口のガラス戸に白い封筒が挟み込まれていることに気付く。それが7時40分頃だったというから、真犯人は家族が食事をしている10分ほどの間に脅迫状をさしこんだという事だ。脅迫状は、身代金を要求していた。被害者の姉が、身代金に見せかけた包みをもって犯人が指定した場所に行き、真犯人と10分ほど問答した。その時周りを40人ほどの警察官が張り込んでいたのに、犯人を取り逃がしたのだ。この1か月前、東京で「吉展ちゃん事件」が起き、ここでも犯人を取り逃がした警察の失態に非難が集中した。その時から狭山事件は起こり、なんとしても犯人を、と焦る警察、また翌年に東京オリンピックの開幕を控え、治安維持を強調したい政権与党と一体となった犯人探しが始まるのだ。そこで目をつけられたのが、事件現場にほど近い被差別部落であり、石川一雄だった。
石川は強制されたウソの「自白」によって、被害者と出会った時間は被害者が学校を出た時間から推定した3時50分頃とされ、出逢った時に「とっさに誘拐しよう」としたとなっているが、石川にとって架空の話。現実の出来事でない、事実でないので、私が思っているほど、5月1日への感慨はない。
矢張り石川にとって、突然逮捕され、それから31年7ヵ月、獄に閉じ込められた早朝の「5月23日」が始まりなのだろう。
5 5年目の5月1日、私は前日から来ていた姪と2人でポレポレ東中野で上映中の映画「獄友」を観に行った。6回目だった。
毎月1日は「映画の日」ということで料金は1000円。連休中だし、朝10時の開演なので人も少ないだろうなと思っていたが、やはり見渡すと30人余り。少しさびしい。映画の中で石川が歌を詠んでいた。金監督に心境を聞かれ、「長期戦、不死の私の歳を云う 勝利の日まで凛と立つ」とメモに書いた。79歳になったことで、多くの人から「石川さんも歳だから」と言われる。石川は裁判を勝つまでは死ねない、死なないとの思いを持って愚直にまっすぐに闘い続ける、立ち続ける」ということを言いたかったそうだ。
ポレポレ東中野には5月5日 石川一雄 5月6日 桜井恵子さん、石川早智子のトークとのお知らせも。千葉のKさん、今日も来てくれていた。映画上映は5月18日まで。
4月28日、現調に来て下さった「県南・石川一雄さんを支援する会」の皆さんが高検・高裁にハガキ行動を続けて下さっているが、今年1月に提出した福江鑑定(99.9%脅迫状の筆跡は石川さんの字でない)のことが分かりやすく書かれていた。
狭山現地事務所で | 高検・高裁に要請はがきを |
4月28日、真宗大谷派 仙台教務所から110筆の署名が届いた。うれしかった。
4月28日、大阪のBさんから「『獄友』を観て、ご両親の病床のシーンとステテコ姿のオヤジさんを夢みました。俺のG・W決まりました。後藤裁判長に毎日ハガキを出します。4回目の成人式、ケリをつけましょう。」
5月1日、「両親の病床のシーンがペンを走らせてくれています。4通目です。」とのメール。
5月1日 山梨のめぐさん「狭山も正念場!『悶えてなりと加勢せんば』と石牟礼道子さんが言っていましたが、悶える事ぐらいしかできませんが加勢せんば、です。5月23日(狭山集会・日比谷野外音楽堂)には二人で行きます」とのメールが・・・・・お連れ合いのTORIさん体調よければ来て下さいね。
5月1日 徳島のCHINAMIちゃん「昨年5月から始まったカレンダーは大切な資料になりました。それと同時に気がひきしまります」
現地事務所の サクランボ |
4月29日、現調に来て下さった狭山のKUMIKOさん、29日に現調に来られた時、狭山勝利したら、KUMIKOさんのお宅で「宴」をと約束。メールで「早く我が家で石川ご夫妻と一緒の宴がもてますように。お二人が元気でその日を迎えられますよう心から願っています」
4月29日、何時も高裁前アピール行動に来て下さるYURIちゃん「冤罪と55年も闘っている不屈の一雄さんは私のヒーローです。頑張っている一雄さんと出会う度に勇気づけられます。狭山事件を知ってから活動に参加するまで、ずいぶん時間がかかってしまいましたが、お二人と出会えて本当に良かったと思っています」
沢山の方からメールやお手紙で励まされ、力を頂いています。ありがとうございました。