近況

 2020年9月17日 東京都連女性部が中心になって、東京高裁前でスタンディング狭山アピール行動があった。
6月に後藤裁判長が退官した。新しく大野裁判長になったが、コロナ禍の中で、さまざまに行動が制約された。しかし、各地では、独自で狭山坐り込み行動や、情宣行動が続けられ、また、集会等も創意工夫しながら取り組まれてきた。
狭山の闘いは、決して止まってはいなかった。
 9月下旬の44回目の三者協議を前に、東京都連女性部の皆さんが「東京に住む私たちこそ高裁前で事実調べを求める声を上げていこう」と高裁前スタンディング行動を取り組まれた。
私自身、飛んでいきたい、逸る気持ちを抑えながら、17日を過ごした。多くの人たちからメールを頂いた。
 神奈川、埼玉、千葉、共闘等32人ほどの人が来てくださったそうだ。、フェイスブック「狭山事件の再審を実現しよう」管理人のミカさんのページに皆さんの熱き思いが伝わってくる。
振り返れば2019年12月の高裁前アピール行動以来9か月ぶりになる。
その間に、57年目の5月23日(石川が別件逮捕され、その後31年7か月の獄中からの闘いが始まった)が過ぎ、6月には43回目で後藤裁判長との最後の三者協議があった。退官前で、最後には裁判官として、一人の人間として正義を貫いてくれると望みをかけていたが、無念だった。
 新しく就任された大野裁判長に、やっぱり望みをつなぎたい。裁判が開かれない限り、石川の雪冤は晴らされない。これだけ新しい無実の証拠が出てきているのだ。もう一度調べなおすことがなぜこのように難しいのか。しかし、石川は「真実は必ず明らかになる」と信じている。「無実の証拠はどんなに時が経っても色褪せない」との強い思いと共に。

 2020年9月18日、滋賀県のOさんからお便りとカンパを送って頂いた。
お手紙には「雪冤 ひで子と早智子の歳月~再審を求めて~袴田事件・狭山事件」を見てくださったことで、「これまでなかなか一歩踏み出せなかったけれど、今の自分の思いを行動にうつしたいと心に決め、パソコンが苦手なのでお手紙を書かせて頂きます」とあり、ご両親から頂いた署名と共に送ってくださった。「ささやかすぎて申し訳ないのですが、できることからやりたいという3人の気持ちです。お身体をどうぞ大切になさってください。またどこかで何かの形で声を上げていきたいと思います。」(一部抜粋)と書かれていた。

 18日、徳島県の国保労組より機関誌が届く。以前私が働いていたところの労働組合だ。職場、組合を辞めて23年になるが、今も毎月発行している「組合だより」が届く。殆ど私が知らない名前の人たちになっているが、みんなの気持ちがうれしい。 

 9月16日、滋賀県のヨッチャンからお手紙と22筆の「市民の会・しが」の皆さんからの署名が届いた。毎月草津駅前で情宣行動が続けられている。

 9月12日、新潟県新発田市の、「部落解放・人権政策確立要求新発田実行委員会」からお手紙と応援メッセージが送られてきた。「東京・墨田支部の取り組みを参考に署名をしていただいた方の顔が見える取り組みをしたいと考え、コロナ禍の中で工夫をしながら、日ごろ会えない方々にも直接自宅に伺い狭山再審を訴えながら取り組むことができた」と書かれていた。

    

 狭山を闘う人たちは、私たちにとって、光であり、希望だ。何もできない私たちに、いっぱいの力を下さる。

 今日(18日)すがすがしい気持ちの中を早朝5時過ぎに愛犬の散歩に行った。6時ごろ車で近くの奥富公園に行った。
1年近く来ていないように思う。春は桜が、秋には曼殊沙華でいっぱいになる。ここはほとんど人が来ない。隠れた穴場だ。曼殊沙華の花はまだだったが、季節が来れば忘れずに花を咲かせるだろう。
今はサルスベリの花が満開だった。

 上記歌は1965年10月に書かれた獄中歌だ。怒りに満ちていても、心折れずに、真っ直ぐ生きてこられたのは、獄中にあっても、獄外にあっても、無実を信じ、温かく支援してくださる人たちがいてくださったからだ。

狭山の春を待つ。