近 況
2020年10月13日、石川は病院に定期検診。ついでにインフルエンザの予防接種を受けるつもりだったが、予約制でこの日は接種が受けられなかった。糖尿病の検査では、毎日運動を続けているにもかかわらず、数値が良くなかったと落胆していた。
13日、埼玉の「県南・石川一雄さんを支援する会」から署名55筆が届いた。10月2日に90筆が届いたばかりだった。各会員が大野裁判長宛に、それぞれに要請はがきや、署名活動を続けてくださっているのだ。
狭山事件の再審を実現しようFBより写真転載 |
10月13日、東京・荒川の加代さんからお手紙と10月2日の荒川狭山集会の写真や、報告を送って下さった。
10月12日、最近ずっとパソコンの調子が悪く、メールは10日以上開けることができず困っていた。パソコンの先生に見て頂き、メールはできるようになったが、まだ、ネットが繋がらないときがある。周辺器具の問題かもしれないということで、12月頃にもう一度見てもらうことになっている。
思い返せば、2000年はじめごろから、パソコン教室に何か月も通い、パソコンの電源の入れ方から習った。教室は一講座、一時間半で、少数の生徒に、個人レッスンの様な感じだったので、料金は当時でも高かったという記憶があるが、必死だった。2000年5月20日、「冤罪・狭山事件」のホームページを立ち上げた。2000年5月23日の「不当逮捕37か年糾弾 狭山集会」をホームページにアップできた時の不安とうれしさは忘れられない。それから20年。
パソコンを始めたきっかけは、1999年7月8日、東京高裁・高木俊夫裁判長が再審棄却をした。その知らせを長野県の集会を終えて帰る途中、マスコミから聞かされた。石川も私も大きなショックと挫折を味わった。新幹線の中で、石川は、ただただ失望と、落胆の表情で車窓から外を見続けていた。
狭山弁護団は1999年7月12日、東京高裁に異議を申し立てた。その後、私に何かできることはと考え、ネットで狭山を発信しようと思った。
それからが大変だった。今もそうだが、せっかく書いたものを間違って削除したり、誤字、脱字はしょっちゅうだった。急にフリーズして、当時、鳥取の友人や、本部の安田さんに切羽詰まって電話したこともある。
第一回のホームページの記事から、2020年10月までの20年間。
古い分は削除してきたが、第一回から載せた文章は皆印刷して保管している。
苦手意識は今も消えないが、いつの間にか、これらは私の宝物になった。
石川が作った短歌も、2000年5月からホームページに載せてきた。
2000年7月に作った歌
一坪の鴨居傍の茄子胡瓜花も実も付き異議審にもと
上記かざぐるまの歌と共に、もう20年前の歌だが、今読み返してみても当時の事が浮かぶ。
10月12日、東京の郡司さんがピクルスをもって狭山まで来てくださった。現地事務所にピクルスを置いておきますとの連絡が・・・・
10月10日、埼玉県の「石川一雄さんを支援する東部市民の会」代表の益子さんから署名67筆とお手紙を頂いた。10月2日~4日まで、「冤罪 狭山事件パネル展、57年目の訴え」を開催してくださったが、多くの人に来て頂いた事、署名も頂いた事などかかれていた。会場の様子なども写真で送ってくださった。越谷市で発行の「広報 こしがや」や、東京新聞埼玉版の「情報ファイル」にも「えん罪狭山事件」の情報が掲載されたそうだ。皆さんの熱い思いが伝わる。
会場には「鴨居」の模型も(10月2~4日) |
10月9日滋賀のヨッチャンからお手紙、マスク、素敵な絵葉書を頂いた。
13日、最高裁は差別・格差を認める判決を出し
国家権力は、国に歯向かうものは許さないと見せしめをする
このような社会にあって、真っ向から権力と対峙する
狭山事件の裁判は厳しさを増すだろう
しかし、石川は、決してあきらめずに57年闘い続けてきた
長い闘いを支援し続けて下さった多くの人がいる
闘い続ける事が暗黒の社会を変えていくと信じる
もうすぐ寺尾判決から46回目の10月31日が来る
中央集会は開かれないが、各地で闘いの炎は燃えている
石川も元気に生き闘っている