徳島で3団体の集会

 第39回部落解放・人権徳島地方研究集会

 2019年2月21日~22日 上記集会が徳島のあわぎんホールを中心に開かれた。
全体集会で部落解放同盟中央本部・組坂繁之委員長から「部落差別解消推進法」の制定や、山場を迎えた狭山闘争についての報告があった。狭山闘争については「今年を大きな一歩の年としたい。石川さんの元気な間に勝利を勝ち取り、ご両親の墓前に報告ができるよう皆さんのご支援をお願いしたい」と訴えられた。

22日、10時から16時まで狭山分科会。
部落解放同盟中央本部安田聡さんより、DVDをみながらわかりやすく報告がされた。DVDに、1994年5月、女性部による千葉刑での「人間の鎖」行動の時の写真、高裁前アピール行動、連合等、多くの団体の高裁・高検要請行動や現調、新聞への意見広告、100万人署名行動、さまざまな場面が映し出された。狭山の闘いは創意工夫し、多くの人々によって支えられてきたのだ。
1994年5月、女性部の「人間の鎖」の闘いから7か月後に石川は仮出獄をした。裁判を続けながら仮出獄を勝ち取ったのも闘いがあったからこそ。
石川は千葉刑の「鎖」行動の時歌を詠んだ。

「獄壁を越えて届かし吾が連呼 無念のうちにも心洗わる」

面会に来てくださっても金網越し(当時)で、自由に話すこともできなかったそうで、「皆さんの声は獄壁を超えて聞こえてきた。大きな力を頂いた」との思いを伝えたくてこの歌を詠んだそうだ。
56年目の狭山闘争の分科会に多くの人が来てくださった。ただ感謝の心でいっぱいだ。


 2月21日17時30分から自治労徳島国保労組の「狭山事件学習会」

 私の出身労組だ。私が狭山に行くために、職場をやめ、組合を脱退して22年以上。
組合員も私が辞めてから入った人がほとんどになったが、毎年の、狭山学習会の開催や、日比谷で開かれる狭山集会に必ず来て下さっているので、辞めて長いという感じはしない。
私のバックボーンだ。


2月22日、「第23回狭山事件を考える徳島の会 総会 学習会

 私が狭山に行くことを決心したとき、徳島の仲間たちが「住民の会」を立ち上げてくださった。だから住民の会の歴史と私が狭山に行った歴史の年月は同じ。
毎年6月に狭山現調に来てくださっている。今年は6月15日~16日。バスをレンタルし、14日夜出発、狭山に翌15日昼前に着く。何人かで運転を交代しながら、夜を徹して車は走る。15日は現調と狭山学習交流会。夜はホテルで泊まり、翌16日朝、徳島に帰る。強行スケジュールだが、これまで22回続いている。いつも安全を祈っている。今年もまたお会いできることを楽しみにしている。

   
木村 清志代表(弁護士) 今が最大のチャンスの時と訴える

 
 さっちゃんの自宅で

 さっちゃん

 これまでずっと応援し続けて下ったさっちゃん。徳島地研でも毎年狭山分科会に来て、笑顔を見せてくれていたが、今年は体調不良で徳島地方研究集会に来られないと伺った。
多分?初代の徳島県連の女性部長(当時は婦人部長)だったと思う。

31年前、さっちゃんと全国女性集会でホテルの部屋が一緒になった。それまであまり話したことはなかったが、その日は2人で夜中まで話をした。徳島の部落解放運動の歴史、戦いを楽しそうに話してくれたさっちゃん。その日から私はさっちゃんのフアンになった。
全女や、いろいろな集会でさっちゃんは必ず狭山分科会に入ってくれた。そして発言をしてくれた。いろいろな集会に行っても、報告することがなかなかできなくて尻込みしていたさっちゃんが、識字学級で文字を取り戻し、生き生きと発言していた。
さっちゃん91歳。石川はさっちゃんのことを、徳島のお母さんと呼んでいる。
さっちゃんありがとう。