狭山事件とは1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が学校帰りに行方不明となり、殺された事件です。警察は40人もの警官を張り込ませながら、身代金を取りに現れた犯人を取り逃がすという大失態を演じてしまいました。当時、東京でおきた吉展ちゃん事件でも犯人を取り逃がしていた警察は、世論の大きな非難をあびました。捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査をおこない、石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1ヵ月にわたり警察の留置場で取調べ、ウソの自白をさせて、犯人にでっちあげたのです。
 狭山事件では、被差別部落住民を犯人視する差別意識や、予断と偏見にもとづいた捜査が冤罪をひきおこしました。私たちは狭山事件の公正な裁判ー再審開始を求めるとともに、あらゆる差別や、冤罪、人権侵害をなくし、取調べ可視化・証拠開示の法制化など、司法民主化を求める運動を幅広くすすめています。(狭山事件の再審を求める市民集会実行委員会ビラより抜粋)


狭山市民集会:2005年5月24日

 1986年第2次再審請求から19年の歳月を費やしながら、「事実調べ」や、「証拠を開示して公正で公平な裁判を」と求める多くの人たちの声にも耳を傾けず、2005年3月16日、最高裁は狭山事件の特別抗告を棄却しました。狭山事件の証拠リストや、未開示証拠を開示すれば真実が明らかになることを恐れた裁判所と検察はあくまで証拠開示を拒否し続け、「事実調べさえしてくれれば私の無実は明らかになる」と叫び続けた石川の思いをまたも打ち砕いたのです。5月24日、「狭山事件の再審を求める市民集会」で石川は「勝利するまで命をかけて闘う」と訴えました。


 

 2006年5月23日、狭山弁護団と石川は、東京高裁第4刑事部に第三次再審請求を申し立てました。2007年には100万筆を超える署名を提出。2008年10月15日、石川はジュネーブの国連自由権規約委員会で無実と証拠開示を訴えました。2008年10月30日、国連自由権規約委員会が日本政府に「証拠開示」を勧告。2009年4月には可視化法案が参議院本会議で可決されましたが、衆議院解散で廃案となりました。
 
 2009年9月10日、32年ぶりに三者協議。12月、第2回目の三者協議で門野裁判長が東京高検に8項目の証拠開示を勧告。2010年5月、第3回三者協議で東京高検が5項目36点の証拠開示。この中に実に47年ぶりに明らかになったのが、1963年5月23日の逮捕当日に石川が書いた上申書が含まれていたのです。

 2014年8月20日には第19回の三者協議が行われました。弁護団や、支援者の皆さんの粘り強い闘いの中で現在136点の証拠が開示されています。
 第3次再審になり、狭山の闘いも、大きな広がりを見せています。高裁前での狭山アピール行動も19次を数えましたし、高裁には多くの人が狭山を訴えています。
「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」も全国各地での自主上映、映画館上映と広がり、英語字幕入りも完成、世界に羽ばたこうとしています。


狭山事件の発生から51年、今大きな山場にあります。

 
  2014年5月23日:狭山市民集会(日比谷野外音楽堂にて)

「三次が最後、三次で勝利を」という石川の訴えにどうか耳を傾けていただきたい
今度こそ「証拠開示」「事実調べ」「再審開始」をさせるよう
一人でも多くの人の支援を心から願っています。